おばあちゃんの扇子
今日はおじいちゃんの命日で、仏壇があるおばあちゃんのお家に行くと、普段はホームにいる、おばあちゃんがいた。
「来週住んでいるところで村踊りがあるからから、もし元気だったら来て欲しい〜!かぎやで風踊るよ。」
と伝えると、もう、すごく嬉しそうにしていて、「りながかぎやで風踊るととってもかわいいはずね〜」なんていわれて、そんなこと言うおばあちゃんが一番可愛いよ!って思ったり。息子(私の叔父)の結婚式の時におばあちゃんはかぎやで風を踊ったそうで、思い出の踊りだと教えてくれた。
体力がもたないから、沖縄市から名護市まで踊りは見に来れないけど、招待ありがとう、と。そして、扇子を持っているからそれは私に譲ると。そして、お家でかぎやで風を踊ったらいいさ〜と。村踊りの曲の中に、四つ竹、カシカケや上い口説、柳、色々あるよ〜と伝えると、あー、カシカケはとてもいい曲で踊りも綺麗だよ。四つ竹も優雅な踊りだよ。と、話が尽きない、尽きない。
そして、ずーっと「大学は行かないか?大学は出ないか?おばあちゃん、サポートするよ」とおばあちゃんい言われ続けていた私。
我ながら、いや、そうだよな!!!と。大学に行って欲しいを飛び越えてこういう話ができたり、嬉しいよなー、、、!!
自分が生まれ育った大好きな島の言葉、周りの人で話せる人がいない、そりゃあ孫に教えたいよなー!自分が踊った思い出の踊り、孫が踊っている姿、見たいよなー!自分が踊りで使っていた扇子、孫が踊るならそれで踊りたいよなー!孫が自分が好きな曲を三線で弾いている姿、見たいよなー!
と、おばあちゃんに頭パッカーンさせられました。
それで私は首里のことばと言われる、うちなーぐちのベーシックを勉強しようと、集落で畑する時などは周りのはるんちゅたちのうちなーぐちに耳を傾けるようにいしている。でも、今日、気づいた。私が学ぶべき言語はもっとマイナーで、沖縄の離島である宮古の離島の伊良部島の佐良浜という漁村の部落の言葉だ。
なぜそれを学ぶべきなのか、なぜそれを学びたいのか。単純に、おばあちゃんの母語で、私のアイデンティティーで、私のルーツで、そして、単純に、もう一度、小さい頃におばあちゃんと、今は亡くなったおじいちゃんと、もう一人のおばーが日常的に話していたあの言葉を聞きたい、でも今はもうおばあちゃんは話す相手がいない。
だから私が話す相手になろうと思った。
そうすると、オルゴールの音のように聞こえていた音(メロディー)が、意味を理解し合うことで、「言葉」になる。一方的に聞いていたオルゴールのメロディーを、今度は私が奏でる側になる。
おばあちゃんがどういう言葉をノートに綴ってくれているかは分からないけれども、そして、私が佐良浜の言葉を仮に少し分かったからといって、おばあちゃんが亡くなった後に誰か特定の話し相手がいるわけではないけれど、今は、一人の特別な話し相手のために、恐らく死に行くであろう言語を、少しでも、親が3歳に話すぐらいの会話でもしたいと私は思う。
そんなの無駄だよ。誰も話さない言語を話し手も意味ないよ。
家族からはすぐにそういうことは言われるような気がするけど、私がそうしたいのだからいいじゃないか。私はそこに価値を見いだしているから、いいじゃないか。カフェが好きで、趣味はカフェ巡りです!というのと本質は同じ。
大浦の村踊りだって、大浦にしかない。だからと言ってそれを踊らなければならないわけではないけど、人は、恐らく、「自分は何者なのか」という疑問を抱き続ける。
それを表すのが歌だったり、踊りだったり、音楽だったり、言語だったりじゃないのかな。
理由はこれだけで十分だし、人間として、このような思いを抱くのは、そこまで変わったことではなくて、むしろ、ごく自然のことだとも思ったりする。