自分を捨てる
7年の月日が流れた。
今さっき日付が2月28日から3月1日に変わり、ふと思い出した、7年前の高校卒業の日。
体育館へと続く武道館で、その日が誕生日の友達におめでとうと言いながらお喋りしていたのを覚えている。
あぁ、早く終わって欲しい。
あと4時間もすればこの高校から出られる。
もう2度と戻ってこなくていい、もう終わる。
沖縄では進学校として5本指に入る高校に通っていた私は、入学式の時に入った教室の黒板に書かれた「おめでとう!今日から君も受験生!」の文字を見た瞬間に悟ってしまった。
(やべー、来る高校間違えた)
この高校に通うために時間を惜しまず勉強してきたあの2ヶ月半はなんだったんだ。結局同級生とは馴染めず、1年生の頃から早く高校生活が終わって欲しいと願っていた。なのに、3年間居座った。
早朝クラスは爆睡
補習と模試はボイコット
保健室の常連客
生徒指導で校長に呼び出される
卒業式の途中、自分の高校生活を振り返って自分は何を成し遂げたのか考えてみたのをよく覚えている。
ハワイの大学に合格したこと。
直近の目標が出来たこと。
引きずっていた過去と向き合い始めたこと。
一生お金に困らないと決断したこと。
そして、この3年間を乗り越えたこと。
この3年間を乗り越えられたから、私に乗り越えられないことはない。
そう思って疑わなかった。
でも、見落としていた。大きな大きな穴を見落としていた。見落としていたというよりも、穴が大き過ぎて穴にハマっていることに気づいていなかった。
3年間を乗り越えればこの先なんだって乗り越えられるという幻想は、自分が求めている世界へ飛び込む勇気がなかったという現実に対してただの口実に過ぎなかった。
今まで、高校生活を正当化して生きてきた。自分に勇気がなかっただけなのにそれを正当化してきた。
そして、今もその本質的な部分は高校生の時と変わっていないという事実に直面した時に、自分がなぜ幸せなのに人生に満足してないかが分かった。
出来ることは増えた
実績も増えた
人間関係も増えた
経験も増えた
出来るようになったことを「これ、出来た!」「あれも出来た!」と数えるのは簡単。私、○○やりました。○○出来るようになりました。そればっかりを並べ、本当はどこで変わりたいのか気づいていない。というか、並べれば並べるほど、気づきは遠ざかる。
「現状」という名の箱の外にある自分が行きたい世界へ、飛び出せていないことに、気づけないまま時間が過ぎる。
「高校生活」という現状の外へ出たかった私がそうしなかったのと、全く変わっていない。
「気づいたら25歳!」にはなりたくないと思っていた私は来週、気づいたら25歳になる。
「25歳」
それは単なる数字であり、指数や区切りにはなり得たとしても何も意味しない。
○○歳をどう生きたいか、そこに焦点は集まりがちだけど、今回は逆の発想で、「どんな自分を捨てたいか」「どんな自分から卒業したいか」に焦点を当てる。
今までにない試みだけど、筋が通る。
がむしゃらに「こうなりたい!」と詰め込もうとしても、なりたくない自分を捨てられてない状態でこうなりたい自分を受け入れるスペースが出来ていない。
何か違う、幸せだけど満足感がない。
それは、捨てたい自分を捨てきれていないからかもしれない